シベリア抑留ってどんなできごと?

2021年12月26日、シベリア抑留よくりゅう者を乗せた最後の引き揚げ船が日本に到着してから65年を迎えました。

シベリアはロシア(当時のソビエト連邦(ソ連))にある地域の名前で、ここに60万人以上もの日本の人々が連れられ、きびしい仕事をさせられてしまい、5万人の方々がお亡くなりになってしまいました。

なぜこのようなきびしい状況に陥ったのか、それは第二次世界大戦で日本が負けてしまったことから始まります。

ロシア(ソ連)との戦争

「第二次世界大戦」は、1939年から始まった世界を巻き込んだ大きな戦争で、日本もアメリカなどと戦って負けてしまったことはご存じの方も多いでしょう。

日本は、アメリカと戦っていたことが記憶に残っているかも知れませんが、実際にはロシア(当時のソビエト連邦(ソ連))にも攻撃をしかけられていました。

それまで、日本とソ連は「日ソ中立条約にっそちゅうりつじょうやく」という条約(やくそくのようなもの)を結んでいて、お互いに戦争はしませんよと決めていました。これは、ソ連はドイツと、日本はアメリカと激しく戦っていたため、それ以上敵が増えると大変なことになるというのをお互いに分かっていたからです。

とはいえ戦争中のこと、この条約は日本もソ連も、無視したり途中でやめてしまうこともありました。

実際、1945年にソ連はこの条約を破棄はき(なくすこと)、当時日本軍を攻めていた中国の「満州まんしゅう」や北海道の「樺太からふと」などに攻め入ってきます。

1945年といえば歴史的には終戦間近。その後間もなく、日本は負けることが決まってしまいます。ソ連とも、8月に戦いをやめる「停戦ていせん」という状態になりました。

帰ることができない日本軍

戦争が終わると、アメリカ軍は戦地に残っている日本人を日本に帰しました。しかし、ソ連は満州や樺太にいた日本人の方々を「捕虜ほりょ」という形でソ連に連れて帰ってしまいます。

捕虜というのは、戦争中に敵の国の人たちを一時的に捕まえることのことで、本来は戦争が終わった後は捕虜とは呼びませんが、このあたりはソ連側の言う事と、日本などが言う事には食い違いがあります。この記事では、主に日本側の言い分に沿って「抑留よくりゅう」という言葉を使っていきましょう。

なぜソ連は抑留したのか

ソ連は、実は日本人だけでなく、同じく第二次世界大戦に負けたドイツの人たちも「抑留」をしていました。

その理由としては、戦争後の復興作業ふっこうさぎょうなどに人手が足りなかったため、働く人たちを集めるためだったと言われています。抑留された日本人は、その後数年間(長い人で10年以上も)シベリアなどで働かされることになります。

ソ連は北の国なので、冬の寒さは非常にきびしく、また食べ物や生活する場所も良いとは言えなかったため、亡くなってしまう方々も少なくありませんでした。

ようやくかなった帰国

1947年、日本はアメリカを通じてソ連に対して日本人を帰してくれるように交渉、ようやく帰国が実現しました。とはいえ、それでも帰国が許されない人たちなどもいて、その最後の人たちが帰国できたのが、65年前の12月26日というわけでした。

戦争は、戦時中の悲惨ひさんなできごとはもちろん、戦後にも多くの傷跡を残し、今もなお苦しんでいる方々やその家族がいます。戦争を忘れず、再び悲劇が起こらないようにしっかり学んでいきましょう。

参考:舞鶴引揚記念館